最近ではすっかり「現場検証」でお世話になっているたまこさんですが、今月は素敵な「オマケ」を送って下さいました。しかも長編みたいですよ〜♪
どうぞお楽しみください。
(平成18年2月)



初 恋 蔵 前 (一)




「お兄様、千代にも英語を教えてください」
妹が突然真剣な顔をして頼むので、源太郎はちょっと驚いた。
だいたいこの妹は、琴を鳴らしたり裁縫をしたり、手を動かすのは得意だが、あまり勉学を好むたちではなく、手習いなんぞもすぐに逃げ出したがるし、書物の講釈などでは始まった途端に居眠りを始めるほうなのだ。これまで源太郎が本所の麻生家に英語を習いに行くときも、ついぞ興味を見せたこともなかったのである。
しかし、そこは親切で骨惜しみをしない源太郎のことなので、花世や麻太郎といっしょに加東秀作先生に習った事の中から、アルファベットの書き方読み方に始まり数の数え方や簡単な挨拶などを、思い出すままに丁寧に書いて教えてやった。
「有難う、お兄様」
書いてもらったものを嬉しげに胸に抱えて去っていったお千代は、その後とくに復習している様子も見えなかったが、数日するとまた突然やってきて
「この前の続きをお願いします、お兄様」
と神妙に座り、驚いたことには、前に教えたことについて、なかなか的をついた質問などもするのである。
いつまでも子供に見える妹だが、やっぱり成長しているものなのだと、ちょっと感動を覚える源太郎であった。


その日、源太郎は午後の早いうちに家を出て、蔵前の江原屋に向かった。
お千代がいずれ婿をとって母の実家の江原屋の跡継ぎとなることは、とくに正式に話し合った訳ではないが、畝家と江原屋の人々の間では暗黙の了解事項であり、お千代本人も最近は蔵前の行事や江原屋の付き合い関係にしばしば顔を出すようになっていた。
今回も、前日蔵前の同じ年頃の娘のいる家の祝い事に招かれていたお千代が江原屋に泊まったので、源太郎が今日の夕刻迎えに行くことになっていたのだが、十手術の稽古が師範の都合で休みとなり、暇の出来た源太郎は早めに蔵前に向かったのである。
江原屋に着いてみると、奥からお千代の声に混じって、もう一人少年らしい声が聞こえてきて、驚いたことには、二人がしきりに英語らしきものを口にしては、何やら楽しそうにはずんだ声で笑ったりしゃべったりしている。
「井上様の坊ちゃまがおいでになっているのですよ。このところ、お嬢様とご一緒によく英語のお勉強をなさっておいでです。なんでも若旦那様が教えて下さっているそうで・・・たいしたものですなぁ」
老番頭が目を細めながら源太郎を奥の部屋に案内すると、お千代と向かい合って座っていた小柄で華奢な少年が、源太郎を見るやいなや、飛び上がるように姿勢を正した。
「これは、お千代殿の兄上でいらっしゃいますか。私は天文方に勤務いたしおります井上丈太郎の次男、弥三郎と申します。兄弟は兄姉が一人ずつ、弟と妹は二人ずつおります。我が井上家は、私共が生まれる以前、こちらの江原屋さんを通じて八丁堀の畝様と神林様に大変な危難をお救い頂いたとのこと、父母は毎日のように私共にその御恩を肝に銘じて忘れぬようにと申しております。またこのたびは、私がお千代殿に勝手を申して英語を教えていただき、まことに御礼の申し上げようもございません」
と息も継がずにしゃべり立てるので、源太郎はあっけにとられた。悪い奴ではなさそうだが、侍の子にしては少々軽々しいのではないかというのが、源太郎の抱いた印象だった。
それに、お千代が柄にもなく英語を習いたいなどと言い出し、教えたことはさっぱり忘れている事も多いくせに、妙に気のきいた質問などをしていたのは、こいつが糸を引いていた事だったのかと合点がいき、多少いまいましい気もした。
しかしすぐに持ち前の親切心が頭をもたげて、源太郎は言った。
「お千代の兄の畝源太郎です。君も英語の学習に興味があるのですか。それなら、私から麻生様と加東先生に頼んでみるから、お許しが出たら、一緒に勉強しに行きましょう」
井上弥三郎が答えるより前に、お千代が飛び上がって叫んだ。
「わぁ嬉しい! お兄様、ぜひお頼みしてさしあげてください」


「お千代はいつ頃から、弥三郎殿と昵懇になったのだい」
その日の夕食時、源太郎は、両親がどのくらい知っているのかを確かめたい気持ちもあり、なるべく言いつけ口のようにならないようにと気をつかいながら、江原屋での出来事を話題に出した。
「そうそう、井上様のところは、ご祝言のあとに、たて続けにお子がお生まれになってね。弥三郎さんは確か、お千代と同い年で、お姉様の菊絵さんとは一つ違いでしたでしょう。弥生さんがよく、菊絵さんと弥三郎さんを連れて、蔵前に遊びに来て下さったものですよ」
「井上殿の住まいは確か本所一つ目だったな。江原屋とは両国橋を渡ってすぐ近くなんだろう。それにしても、お千代を通じて英語を学ぼうとは、考えたものだな」
「弥生さんも、お子たちが七人もいらっしゃってはさぞ大変でしょうねぇ。でも皆さん、そろって出来がよろしいそうで先が楽しみですよね。弥三郎さんもきっと勉強好きでいらっしゃるのでしょう」
「昔、弥三郎殿のご両親の危難を、父上が助けたことがあるそうですが・・・?」
「危難? ああ、回向院の兜の一件か。井上家の家宝の拝領の兜が、たまたま回向院の開帳に出ていたものと似ていたとかいうので、けちをつけようとした輩がいたんだったな。何でも、弥三郎くんの母上に横恋慕していた奴だったというが。危難というほどのものではないが、支配違いだし私は何もしていないよ。東吾さんが、ちょいとその不届き者をおどかしてやったのではなかったかな」


弥三郎の参加はもちろん誰にも異存はなく、お千代まで一緒について来たため、次回の麻生家での英語学習は賑やかなものになった。そこで皆が目をみはったのは、弥三郎の際だった語学の才である。
師匠の加東秀作の方針で、漢語でも素読が大事であるように、英語もできるだけ口を動かすことが大事だとして、英文を口頭で言う練習が毎回おこなわれていた。英語は日本語と違って代名詞の格変化や時制・単数複数の変化等があり、書くのであれば、源太郎も、一つ一つ考えながら正しく書けるのであったが、口に出して言うのは大変むずかしく、いつも舌がもつれてしまい、それは麻太郎や花世もほぼ同様である。
ところが弥三郎は、難なく一つの文を頭から終わりまですらすらと口にする上、文法的な変化なども間違いなくこなし、加えて一同が驚嘆したのは、師匠が問うて答えるまでに間をあけず、日本語での会話と同様、打てば響くように答えるそのスムーズさであった。
もちろん、これまでの学習に参加していないために、知らない語彙や事項はまだ多いのであったが、飲み込みの速さと口跡の良さは天賦のものと思われた。
さらに、いかにも学習が楽しいという気分に満ち溢れ、師匠がわざと長くて難しい課題を与えると、目をくりくりと動かしながら懸命に答える様子がいかにも明るかった。
お千代は自分の勉強はそっちのけで、弥三郎が難しい問題をクリアするたびに手をたたいて喜び、師匠の加東秀作も、教えがいのある新しい弟子を得て、至極上機嫌であった。
つづく
初恋蔵前(二)